京都府立医科大学 産婦人科学教室
 
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京都府立医科大学
京都府立医科大学附属病院
産婦人科学教室の125年:歴代教授
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  京都府は明治5年粟田口青蓮院に療病院を開設して先きに招いた独乙人医師Junker von Langeggを教師として医学の教育を始めたが実にこれが京都府立医科大学の淵源である。当時、東京、大阪、岡山、鹿児島、熊本、長崎などの各地に開設された医学の教育機関では東京を除きその他では主として和蘭人医師を招いて教師としていたのに対し京都府療病院医学校ではJunkerの他、独乙人医師Scheube、或は独乙語のできる蘭医Mansveltを教師とし、講義はすべて独乙語をもって行うことを原則とし、そのために予科をおいて独乙語の教育を行っていた。明治13年7月、河原町通広小路梶井町の現在地に過去6年を要して建設中であった学校及び病院が竣工し粟田口にあった療病院をここに移転すると共に同年9月の京都府会に於て経費節約のため医学校の課程を予科1年を含む5年制に短縮し、また講義はすべて日本語をもって行い、高給を必要とする外人教師の招聘を今後中止することが議決され、翌14年この議決を実施に移すと共に学校と病院の経営を分離し、従来の療病院医学校は京都府医学校と改称されるに至った。療病院医学校が京都府医学校と改称されて後1年を出でずして、明治15年2月中央政府は大政官布達をもって、従来の医学校を甲乙の二種に区別し、甲種医学校の卒業生は大学の卒業と同様に無試験で開業を許可することに改められた。甲種医学校と在るために必要な条件にはいくつかあったが当時の京都府医学校に欠けている条件の中で最も重要をものは教諭に3名以上の医学士が含まれていないことであった。明治14年5月に医学士新宮涼亭が一等教諭内科部長に就任していたので後2名の医学士が必要となり、明治15年5月に医学士 猪子止戈之助(外科部長)医学士 斉藤仙也(内科部長)を一等教諭に任命し、その他必要な条件を整えて、明治15年11月京都府甲種医学校として認可されるに至った。然るに明治16年5月 新宮涼亭辞任して市内で開業したため教諭に医学士3名以上を必要とする重要を条件が失われ当局は苦慮していたが明治17年4月その年東京大学を卒業した浅山郁次郎を一等教諭、眼科部長として迎え漸く難を免れた。かくの如くして従来専門診療科を持たなかった病院に期せずして内科(斉藤仙也)外科(猪子止尤之助)眼科(浅山郁次郎)の専門診療科が生れたわけである、明治17年9月には外科から分離して第4番目の専門診療科として産婦人科が創設され、初代の部長に武部隆太郎が任命された。

     
 

<初代 武部隆太郎教諭 時代>
自明治17年9月〜至明治20年2月

在任2年7ケ月

<第2代 足立健三郎教諭 時代>
自明治20年6月〜至明治27年11月

在任7年5ケ月

<第3代 高山尚平教諭 時代>
自明治28年1月〜至明治36年5月

在任8年5ケ月

<第4代 秋元隆次郎教諭 時代>
自明治36年5月〜至大正3年7月

在任11年3ケ月

<第5代 加治安信教授 時代>
自大正3年9月〜至大正14年11月

在任11年3ケ月

<第6代 山田一夫教授 時代>
自大正14年11月〜至昭和28年6月

在任28年8ケ月

<第7代 澤崎千秋教授 時代>
自昭和29年3月〜至昭和33年3月

在任4年1ケ月

<第8代 徳田源市教授 時代>
自昭和33年12月〜至昭和45年9月

在任11年10ヵ月

<第9代 岡田弘二教授 時代>
自昭和46年3月〜至平成7年3月

在任24年1ヵ月

<第10代 本庄英雄教授 時代>
自平成7年4月〜至平成20年3月

在任13年

<第11代 北脇 城教授 時代>
自平成20年7月〜現在

 

 
 
 
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