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古医書コレクション

古医書コレクション

図書館では、2007年から2014年、公益財団法人京都府医学振興会 松本仁介氏基金から、医学の歴史研究に役立つ古医書を受け入れました。貴重なコレクションの一部を紹介します。解説は本学人文・社会科学教室 八木聖弥准教授にお願いしました。

2007年受入分リスト

【解体発蒙】 文化10(1813) OPAC 画像(抜粋)
 

三谷公器(1775~1823)著。文化10年(1813)刊。5冊(4巻、附録1巻)。中国医学の絶対性を信じ、西洋解剖学の内容はその中に含まれると考えた。掲載箇所では動脈を経脈、静脈を絡脈としている。また杉田玄白の影響も受け、三焦のうち上焦府をゲールペイプ(ゲール管)、中焦府を大キリイル(膵臓)、下焦府をゲールカキュウ(乳糜槽)にあてている。挿図は多色刷りで、京都で行なわれた解剖に参加した際の所見と、小石元俊が指導した『平治郎臓図』や『施薬院解男体臓図』(いずれも画は吉村蘭洲)などを参考にした。

【本朝醫談】 文政7(1824) OPAC 画像(抜粋)
 

奈須恒徳(1774~1841)著。文政5年(1822)刊。所蔵本は同7年(1824)の再刷りで、恒徳の門人服部甫庵の跋を付す。続編にあたる二編は同13年(1830)刊。医薬や医療制度などに関する歴史随想集。なかでも曲直瀬道三の『啓迪集』を「近古の医書多しといへども啓迪集より盛なるはなし」と高く評価している。二編では江戸初期に「みいら」という薬が流行したことを伝えている。恒徳は多紀氏の医学館に学んで医官を目指したが、やがて古医書の研究に専念、黒川道祐『本朝医考』のあとを受け、医史の叙述に励んだ。

【眼科錦嚢】 天保2(1831) 【續眼科錦嚢】 天保8(1837) OPAC 画像(抜粋)
 

著者の本庄普一(1798~1846)は和漢蘭を折衷して眼科学の大成に寄与した。解剖学・生理学を基礎として眼病を外障・内障に分類、病名を確立した。著者の「例言」には「積年の艱苦を経てこれを為す」と記す。眼病の地域差を指摘して摂生を説き、義眼の製造法も紹介する。続編では奇病難治の治療法を論じ、眼科療具図解を付し、手術法も図示している。前編4冊は天保2年(1831)、続編2冊は同8年(1837)刊。

【醫案類語】 文政元(1818) OPAC 画像(抜粋)
 

蘆川桂洲著。8冊(序目1巻、7巻)。貞享3年(1686)序。病名1822項目をいろは順に並べ解説を施す。『外科正宗』『医学綱目』などから引用する。当初は治療法にも言及するつもりであったが、繁多を極めたため省略したという。疾病は六気(風寒暑湿燥火)七情(喜怒憂思悲恐驚)の過不足によると断言している。すべての病名にルビを付し、カタカナ交じりの本文とするなど、初学者向けの内容である。

【病名彙解】 貞享3(1686)序 OPAC 画像(抜粋)
 

蘆川桂洲著。8冊(序目1巻、7巻)。貞享3年(1686)序。病名1822項目をいろは順に並べ解説を施す。『外科正宗』『医学綱目』などから引用する。当初は治療法にも言及するつもりであったが、繁多を極めたため省略したという。疾病は六気(風寒暑湿燥火)七情(喜怒憂思悲恐驚)の過不足によると断言している。すべての病名にルビを付し、カタカナ交じりの本文とするなど、初学者向けの内容である。

【蒹葭堂雜録】 安政6(1859) OPAC 画像(抜粋)
 

木村蒹葭堂孔恭(1736~1802)は大坂の北堀江で酒造業を営むかたわら本草学に通じ、物産収集・考証学・画業・詩文・出版など多彩な方面で活躍、交友関係も広い。本書は四代目蒹葭堂主人の依頼により暁鐘成がまとめたもので、所蔵品から珍奇なものを選んでいる。画は松川半山。安政3年(1856)序。5冊。掲載図は「異魚」と「食火鳥」。異魚は「口さきに釘のごとくなるもの有。長サ五六寸」と記す。食火鳥の項では得意のオランダ語「カスワル」を併記するなど、蘭学への興味の一端を示す。

【泰西疫論 前後篇】 文政7(1824)-天保6(1835) OPAC 画像(抜粋)
 

順正書院を創設した新宮凉庭(1787~1854)が長崎で火災後の熱病治療に役立てるため西洋医書を訳した。前編・神経疫部2冊は文政7年(1824)刊。フーフェランドやコンスブルックの内科書の一部を抜粋してまとめた。後編・腐敗熱部2冊は天保6年(1835)刊。西洋医書の範囲を広げ、腐敗の疫は邪が胃中に成るという。凉庭は丹後由良の出身で、室町通高辻で開業した。彼を訪ねたシーボルトは日本一の蘭書所蔵者であるといった。養子の凉民・凉閣、孫の凉亭らは本学の創設に貢献した。

【銃創瑣言】 嘉永7年(1854) OPAC 画像(抜粋)
 

大槻俊斎(1806~1862)がセリウスの外科書、モストの医事韻府から銃創に関する部分を抄訳した。当時、一部を除いて蘭書の翻訳は禁止されていたが、嘉永7年(1854)刊行にこぎつけた。1冊。俊斎はみずから西洋式砲術を学び、軍陣医学に尽力した。天保12年(1841)長崎で牛痘接種法を学び、江戸に帰って種痘に成功した。江戸における最初の種痘であった。お玉が池種痘所創設の中心人物としても知られ、オランダ医学の発展に尽した。

【質測窮理 解臓図賦】 文政6(1823) OPAC 画像(抜粋)
 

文政4年(1821)12月16日、小森玄良(桃塢)が京都で行なった解剖の記録。23歳の男性の解剖には133名が参加したという。翌年、門人の池田冬蔵が刊行した。玄良は江間蘭斎や海上随鴎(偏は旧字体)に学び、文化6年(1809)京都で開業する。藤林普山とともに京都蘭学の双璧と呼ばれた。わが国ではじめて乳糜管を実見、図では胸管が左鎖骨下静脈に入るところで二つに分かれている。

【常用方鑑】 明治12(1879) OPAC 画像(抜粋)
 

原著者ボート・ショイベ H. B. Scheubeは、京都療病院の第3代外国人教師として明治10年(1877)8月着任した。本書は同12年(1879)、江阪秀三郎が翻訳、神戸文哉が校閲して若林春和堂から出版された。ショイベの処方した薬名をイロハ順にして掲載、原書にはない製剤法(「独逸局方」所載)を付した。凡例・目次ほか24ページ、本文126ページ、製剤の部40ページ。

【京都府医学校講義録】 組織学: OPAC 画像(抜粋) 病理解剖学: OPAC 画像(抜粋)
 

明治期の本学講義録は本館に多数所蔵されるが、そのうち「組織学」と「病理解剖学」を掲げる。「組織学」は加門桂太郎、「病理解剖学」は角田隆の口述で、いずれも明治32年(1899)の分。和紙に墨書された微細な文字・図から医学生の意気込みが伝わる。加門は講義のために前日から黒板に図を描いていたという。角田は病理学教室初代教諭。昭和11年(1936)学長になった。

2008年受入分リスト

【婦人寿草】享保11年(1726)刊 OPAC 画像(抜粋)
 

香月牛山(1656~1740)著。3巻6冊。牛山は筑前出身で儒学を貝原益軒に、医学を鶴原玄益に学んだ。のち京都で開業する。李東垣の医説を信奉する後世派であるが、みずからの経験も加味した。本書は啓蒙的な産科書であり、中国の古典を引用しつつ、産前産後の過ごし方について説明する。胎教についての一節もあり、「妊婦、其子の容貌端正に心行正直ならんことを欲せば、つねに口に正言を談じ、かりにも雑話婬乱なることをかたるべからず。身に正事をおこなひ、放逸無慙なるふるまひをなすべからず」などと記されている。

【西遊日記】天保7年(1836)序 OPAC 画像(抜粋)
 

新宮凉庭(1787~1854)著。1巻1冊。凉庭の長崎遊学を日記風にまとめた。凉庭は文化7年(1810)8月6日京都を出発、同10年(1813)9月16日長崎到着。吉雄如淵(耕牛の末子)にオランダ語を学び、プレンキの外科書・解剖書を訳した。のち『解体則』として出版される。また天文学者末次独笑に算数を学んだ。本書の内容には一部錯簡が認められるが、凉庭の長崎遊学を知る好資料といえる。巻末に「順正楼丙申集」を付し、中国人物論や漢詩を載せる。続刊の予定もあったようだが未刊。

【但泉紀行】弘化3年(1846)序 OPAC 画像(抜粋)
 

新宮凉庭(1787~1854)著。1巻1冊。弘化2年(1845)3月、凉庭一家が城崎温泉に行ったときの記録。娘の松代が「子宮疝」に罹ったため湯治に出かけた。3月15日に出発し4月1日に到着。城崎には25日まで滞在し、5月18日に帰宅する。その間、凉庭自身は多くの診察をこなし、「温泉論」の執筆を行うなど、多忙を極めた。娘は一時危篤となったが、のち回復して凉民と結婚、本家を相続した。

【破レ家ノツヅクリ話】弘化4年(1847)序 OPAC 画像(抜粋)
 

新宮凉庭(1787~1854)著。3巻3冊。上巻は経済篇、中巻は政事篇、下巻は政事篇・吏術篇から成る。某藩家老が凉庭に財政の立て直し策をたずね、これにこたえたもの。凉庭は経済的に困窮した家庭に育ったこともあって、のち裕福になっても質素倹約を旨として生活した。本書でも奢侈を戒め、倹約を説く。また人の上に立つ者は、徳を積み諫言を聞き入れる度量が必要であるという。

【順正書院記】明治2年(1869)序 OPAC 画像(抜粋)
 

新宮貞亮(凉介。1822~1875)編。1巻1冊。新宮凉庭の死後、凉珉・凉閣・凉介の三子が相謀り一書をなしたという。凉庭は私財1万両を投じて順正書院を創設した。天保10年(1839)から3年を費やしたという。医学・儒学を講じる場であり、文化人のサロンでもあった。シーボルトは順正書院の蔵書を黄金3000両に値すると評した。本書は書院の絵を載せるほか、凉庭の業績に対して12名が賛辞を寄せている。

【鬼国先生言行録】明治18年(1885)序 OPAC 画像(抜粋)
 

新宮凉閣(1828~1885)著。1巻1冊。新宮凉庭に関する基本的伝記の一つ。幼少時の凉庭については本書によるしかない。凉庭は11歳のとき伯父有馬凉築の学僕となり、巌渓嵩台に経書を学んだ。記憶力に優れ神童とうたわれた。33歳のとき京都で開業したが、治療に「楽屋療治」「附合療治」「豪家療治」の三法があるといった。また医は仁術というも、術が拙くては誤って人を殺すこともあり、仁医とはいえないと考えた。門弟には医術の上達につとめさせたという。

2009年受入分リスト

【泰西方鑑】文政12年(1829)刊 OPAC 画像(抜粋)
 

小森玄良著。5冊(5巻)。小森玄良(桃塢)は現在の岐阜県大垣市に大橋正成の子として生まれ、京都伏見の医師小森義晴の養子となった。二度にわたって人体解剖を行ない、その記録は弟子の池田冬蔵が『解臓図賦』として残した。門人は300名を超え、新宮凉庭・小石元瑞らとともに京都の蘭学興隆に尽くした。本書は『病因精義』『蘭方枢機』のあとをうけて著されたもので、フーフェランドの『原病論』をはじめ100件ほどの西洋医書を引用し、3000余の方剤を挙げる。広く西洋医学に通じ、諸説を整理した点に意義がある。

【天保医鑑】天保14年(1843)序 OPAC 画像(抜粋)
 

伊佐治縫之助(藤原重光)著。1冊(1巻)。伊佐治縫之助は眼科の和漢蘭折衷医で、多くの古医書を所蔵していた。著作も多く、なかには詩文集もある。本書は京中の医師を内科・外科・産科・口中科・西洋・漢蘭などに分類したもので、合計337名をのせる。各医師の住所や著作などを簡潔に紹介しており、入門者の手引きと名医を探す資料としての性格をもつ。題箋に「天保医鑑 全」とあるが、上巻のみの収載で下巻は欠。かわって縫之助撰の「傷寒金匱備験冊」を附録とする。

【歴代名医一覧】天明7年(1787)序 OPAC 画像(抜粋)
 

吉田宗愔著。1冊(1巻)。吉田家は医業と土倉を営み権勢を誇っていたが、桃山時代の宗桂は中国の明に渡り世宗の病を療した。その際、「医は意なり」にもとづき意安の号を賜り、あわせて「称意」の二文字を贈られた。ここでいう「意」とは状況に応じて臨機応変に対応することで、特に薬の配分に経験と知識を要した。以後、吉田家の医学塾を称意館と呼んだ。宗桂の長男角倉了以は土倉業を継ぎ、高瀬川の開削で有名である。次男の宗恂は医業を継ぎ、『歴代名医伝略』を著す。宗?はこれにならって本書を編纂した。「太古」の伏羲から「清」の銭峻までを掲出するが、なかには字(あざな)だけの紹介にとどまるものもある。

【生生堂養生論】文化14年(1817)刊 OPAC 画像(抜粋)
 

中神琴渓口授、坂井道仙・大塚碩庵筆記。1冊(1巻)。中神琴渓は現在の滋賀県に生まれた。吉益東洞の著作に影響を受け、48歳になって京都に出て医業を開いた。掲載写真にあるように、医師は師から「口授面令」を受けて学ぶべきであるという。医道は著作や言語で伝えられるものではなく、法則にしばられず臨機応変の対応が肝要であると説いた。したがって琴渓自身は著作を残さなかったが、弟子が教えを書きとめている。本書で養生の根本は余計なことに惑わされず、「精神」を充実させることに尽きると断言している。

【新編霊宝薬性能毒】寛文9年(1669)刊 OPAC 画像(抜粋)
 

曲直瀬玄朔著。6冊(6巻)。曲直瀬道三(正盛)の『薬性能毒』を養子玄朔(正紹)が増補改訂した。いく度か版を重ねたが、本書は京都・西村九郎右衛門が開板したもので最も古い。もともとの書名は中国の明の医書『医学正伝』に「薬性に各々能毒あり」による。薬というものは病気の人には効果があり、そうでない人には毒になるという。本書冒頭の「服薬の用心」には、市販の薬や藪医者による処方には十分気をつけるようにと呼びかけている。

【増補重訂内科撰要】文政5年(1822)序 OPAC 画像(抜粋)
 

宇田川玄真著。6冊(18巻)。宇田川玄随(槐園)は大槻玄沢にオランダ語を学んでゴステルの内科書を翻訳し『正説内科撰要』を著した。それまでオランダ医学といえばもっぱら外科を中心として取り入れられてきたが、ここにはじめて内科が紹介されることになった。ただし、玄随は全巻刊行を待たずして没したので、余巻は版元も江戸から大坂に移り、小石元瑞らが完結に導いたという。玄随の門人で養子となった玄真(榛斎)がさらに手を加えて出版したのが本書である。玄真には『医範提綱』などの著作もあり、学統は養子榕庵に引き継がれた。

【広益本草大成】元禄11年(1698)刊 OPAC 画像(抜粋)
 

岡本為竹著。10冊(23巻、総目1巻)。岡本為竹(一抱、一抱子)は後世派に属する京都の医師であった。難解な医書を簡単に解説する書物を多く著したが、兄近松門左衛門にそれでは医師を堕落させると批判された。本書も李時珍の『本草綱目』にもとづいているが、異名や和訓をのせたり、総概・使薬・毒・畏悪・附方・愚案・修治といった項目を立てるなど、工夫も見受けられる。内容は草部・木部・果部・穀部・菜部・金石部・水部・火部・土部・服器部・人部・虫部・鱗魚部・介部・獣部・禽部に分かれ、合計1,834種を挙げる。

2010年受入分リスト

【醫學指南篇 巻之上・中・下】年(刊年不明(江戸初期か)) OPAC 画像(抜粋)
 

曲直瀬道三著。3冊(3巻)。医学入門書として編集された。内容は医学・医法・診切・立方・用薬・弁治・治療・治例・治法・脾胃・戒慎・療養・節養に分けられる。道三は田代三喜から李朱医学を学び、京都に啓迪院をつくって門人を養成した。門人の能力に応じて「切紙」を授けるなどユニークな教育を行なう一方、患者には個別の症状に対応する察証弁治を導入した。本書では一つの説に偏執せず、広く学ばなければ大成しないと戒め、『黄帝内経』を基本としつつ張仲景や金元四大家(劉完素・張従政・李杲・朱震亨)らを適宜勘案して治療に当たるべきであると説く。医は意であるから、臨機応変に対処せよというのである。

【歴代名醫傳略 巻上・下】寛永10年(1633)刊 OPAC 画像(抜粋)
 

吉田意安(宗恂)編。2巻(2冊)。宗恂は父宗桂同様、中国・明に渡り最新の医学を日本に紹介した(【歴代名医一覧】の項参照)。豊臣秀吉・徳川家康に仕え『古今医案』などを著した。本書は「上古」の伏羲・神農・黄帝に始まり、明の龔廷賢にいたるまで401名の名医を対象とする。宗恂は曲直瀬道三の学統に連なり、慶長2年(1597)の序にも「医は意なり。理なり。けだし意をもって理を窮むるの称なり。それ性理を明むるものは儒学にして、寿命を保んずるものは道教なり。これを兼ねて有するものは医ならくのみ」と記す。これまでまとまった名医の伝記がないので、諸書を参考にして本書を著したという。

【京都醫員一覧表】明治17(1884)刊 OPAC 画像(抜粋)
 

今井佐七編。1舗(縦73cm・横51cm。2紙を継ぐ)。京都在住の医師を相撲番付風に列挙する。東西の最高位(大関)には京都療病院の猪子止戈之助と斎藤仙也を置き、東は「治療学術名家」、西は「治術大家」が名を連ねる。東西各186人ずつ、中央の行司の位置には新宮涼閣・半井澄・安藤精軒ら11名、勧進元の位置には私立眼科病院の松山章三、私立病院の明石博高ら4名、他に京都療病院・京都駆黴院・上下流行病避病院(病院名のみ)が挙がる。医師を7種に分類し、西洋188名・漢法80名・漢洋105名・外科1名・産科1名・小児科1名・眼科2名とするが、2種折衷が10名おり、総数388名が住所とともに掲示される。治法を誤まる医師を除き、仁術篤行家を集めたという。

2011年受入分リスト

【京都療病院日講録】明治6年(1873)-明治7年(1874)刊 OPAC 画像(抜粋)
 

独逸永克(ドイツ・ヨンケル)口授。2冊(2巻)。京都療病院は本学および附属病院の前身。明治5年(1872)、ドイツからヨンケル Junker von Langegg を招き、粟田口青蓮院で診療と医学教育が始まった(その直前には木屋町二条の宿舎で行なう)。本書はヨンケルの講義を翻訳筆記したもので、巻一が解剖学(骨学)《渡忠純・真島利民・新宮凉介筆記》、巻二が痘瘡論・種痘論《村治重厚筆記、新宮凉介校字》である。渡は庶務取締、真島と新宮は当直医であった。真島は丹後の生まれで緒方洪庵の適塾に学び、長崎に留学して綾部藩医をつとめた。眼科を得意とするが、のち南禅寺に設置された癲狂院の院長になった。新宮は松山俊茂の長男で新宮凉庭の養子。村治はエルメレンスの『原病学通論』を翻訳した一人として名高い。

【切紙】慶安2年(1649)刊 OPAC 画像(抜粋)
 

曲直瀬道三著。2冊(2巻)。道三は田代三喜から李朱医学を学び、京都に啓迪院を建てて門人を養成した。その際、個人の能力に応じて指導し、折紙を半分に切って秘訣を記し授与したという。これをまとめたのが本書である。冒頭には「五十七箇条」を挙げるが、医は仁慈の心をもってすべし、四知(神=望、聖=聞、功=問、巧=切)を尽くして病因をよく察すべし、発病に個人差があることを知るべし、などといった法則が書かれている。そのほか「診候薬註一紙之約術」「脈対分別之捷径」など全41篇からなり、大半が元亀2年(1571)の成立。刊本には数種類ある。

【診脈口伝集】江戸前期刊 OPAC 画像(抜粋)
 

曲直瀬道三著。1冊(1巻)。天正5年(1577)奥書。脈診の要点を簡潔にまとめたもので、「男女ノ左右」に始まり「小児ノ虎口」にいたるまで28条からなる。「男女ノ左右」では男は陽であるから左手、女は陰であるから右手から診よと述べている。陰陽五行論を基礎とする李朱医学の影響がうかがわれる。初学者のためのもので、さらにくわしくは『脈経』『脈訣』『察病指南』などを究明せよという。

【医法明鑑】江戸前期刊 OPAC 画像(抜粋)
 

曲直瀬玄朔著。2冊(4巻)。玄朔は道三の甥で養嗣子。二代道三を名乗り、李朱医学を元にしながらも日本に合った医療を進め道三流を確立させた。正親町天皇、豊臣秀次などの症例をまとめた『医学天正記』が名高い。本書は巻一が「中風」をはじめ13種、巻二が「虚損」をはじめ32種、巻三が「眼目」をはじめ12種、巻四が婦人54種・小児51種の病症を挙げ、劉河間・李東垣・朱丹渓谷らの諸説を紹介しながら処方について詳細に述べている。元和九年(1623)成立との説がある。

【養寿院医則】宝暦元年(1751)序跋 OPAC 画像(抜粋)
 

山脇東洋著。1冊(1巻)。東洋の父清水立安は山脇玄修から道三流の李朱医学を学んだ。東洋は玄修の養子となるが、のち後藤艮山の門下となり古医方を修めた。古医方は親試実験を旨とし、東洋は積年の願いがかなって宝暦四年(1754)に観臓を行ない、『蔵志』にまとめたことは有名である。医則は十則からなり、門下に示すとともに北野天満宮に奉納された。古医方が普遍的な原理であることを述べ、発汗・嘔吐・瀉下の三原則を学ぶことが基本であるという。倫理的な要素は含まれておらず、実践に徹底したところに特徴がある。附録として儒学者への書簡などを載せる。

2012年受入分リスト

【蘭療方】享和4年(1804)序刊 OPAC 画像(抜粋)
 

広川獬訳、山口素絢画。2冊。獬は徳島県に生まれ、長崎に遊学して吉雄耕牛にオランダ語を学んだ。のち京都の柳馬場通錦小路上ルに住み、華頂宮の侍医をつとめた。本書はオランダの「ランガレーヘン・ブック」(不詳)を訳したものという。蘭学は外科を中心として受容されたが、ここでは内科を対象とする。傷寒をはじめとする72の病名を挙げ、その治療や薬方を紹介する。欄外には薬剤名をオランダ語で記し、読み仮名を付している。「器物図説」では内科治療器具23図を掲げる。本書の姉妹篇として『蘭療薬解』がある。本書に掲載する蘭薬をイロハ順に並べ、主効について述べている。

【本草啓蒙名疏】文化6年(1809)刊 OPAC 画像(抜粋)
 

小野蘭山鑑定、小野職孝編。8冊(7巻)。蘭山の『本草綱目啓蒙』に収める和漢名をイロハ順に配列した索引。蘭山は京都で生まれ、衆芳軒を開いて門人を養成した。71歳のとき幕府に招かれて江戸に下った。職孝(もとたか)は蘭山の孫で、江戸で蘭山の世話に当たった。その後も『本草綱目啓蒙』を出版する際に校訂を行い、諸国採薬に同行するなど、もっとも身近で支えた人物である。文化7年に家督を相続し、医学館で『本草綱目』の講義を行い、四谷薬園の管理も任された。のち小石川養生所に医師として勤務、最後は奥詰御医師に昇進した。天保5年(1834)、江戸大火により自宅を焼失、多くの版木を失った。

【知生論】安政4年(1857)刊 OPAC 画像(抜粋)
 

広瀬元恭訳。3冊(6巻)。元恭は山梨県に生まれ、江戸で坪井信道に蘭学を学んだ。30歳のころ京都に上り、時習堂を開いて広く洋学を教えた。いわゆる基礎医学を重視し、『理学提要』や『人身窮理書』といった訳書もある。本書はAdolphus Ypeyの生理学書を訳したもので、時習堂での講義を門人が筆記した。A.Halberの説に従い人体の生理を5部に分け、人身元行(諸元素)、生活官能(循環・呼吸)、動物官能(精神)、自然官能(消化)、播種官能(生殖)とする。YpeyはW.Henryの原著をオランダ語訳した人物としても知られる。これを宇田川榕庵が邦訳して『舎密開宗』とした。

2013年受入分リスト

【内科秘録】元治元年(1864)刊 OPAC 画像(抜粋)
 

本間棗軒著。14冊(14巻)。棗軒は常陸国に生まれ、原南陽に入門したのち杉田立卿に蘭学を学んだ。京都では太田錦城に経義を教わり、さらに華岡青洲やシーボルトにも師事するなど、蘭漢折衷医学を身につけた。わが国ではじめて脱疽患者に対して下肢切断術を行ったほか、乳癌の手術や膀胱結石摘出術でも名高い。これら外科疾患については『瘍科秘録』および『続瘍科秘録』の著がある。本書は内科疾患に関するもので、多くの彩色図版を入れている。治療に際しては一派に拘泥してはいけないとする一方で、みずから改正して実践すべきであるとも説いている。

【蘭説弁惑】寛政11年(1799)刊 OPAC 画像(抜粋)
 

大槻玄沢述、有馬文仲記。2冊(2巻)。文仲は福知山藩主朽木昌綱の藩医で、昌綱もまた蘭癖大名といわれた。本書はオランダに関することがらを46項目あげ、絵を交えて説明する。たとえば、<「あるへいと」は、右にいふ払郎察(フランス)といふ国語にて、砂糖の事なり、本名「あるへいとむ」といふの転ぜるなり、「かすていら」は本名「かすている、ぶろふど」なり、「かすている」は城の事、「ぶろふど」は右にいふ「ぱん」の事、よく久しきに耐へるもの故、もと軍陣長旅などの時用るものといふ>と述べる。当時、珍奇なものはオランダの名を冠して利を得る風潮があったので、これをただすために著したという。

2014年受入分リスト

【瑞穂草】1880年刊 OPAC 画像(抜粋)
 

ヨンケル著。全3巻。ヨンケルは明治5年(1872)京都療病院に赴任し、本学および附属病院の基礎を築いた。滞在は3年半であったが、診療や教育のかたわら日本文化に興味を示し積極的に取材した。本書はその成果で、帰国後ライプツィヒで出版された。上巻は忠臣蔵を取り上げる。構成は大序にはじまり10章からなり、『仮名手本忠臣蔵』に基づいたと思われる。中下巻は「雑録之部」と題し、中巻は日本の文学、文房具、神道、将軍記、源平記など、下巻は鎌倉執権、新田義貞、足利将軍、織田信長、仏法などを扱う。表紙には毛筆体の日本語タイトルも掲げ、菊の御紋や三つ葉葵を金箔押しで配するなど、日本での出版かと思わせるほどの装幀である。日本の昔話をドイツ語訳した『扶桑茶話』(1884年)と並んで、ヨンケルの日本文化論として貴重な資料といえる。