沿革

京都にはじめての近代病院

 明治政府が成立し、天皇の還幸延期の決定により首都でなくなった京都はさびれて活気を失い、人心は大きく動揺しました。この京都を衰亡から救ったのは参事(のちに知事)槇村正直、顧問山本覚馬、青年蘭方医明石博高らでありました。彼等は我が国に入りつつあった西欧文明を積極的に摂取することに全力を傾注しました。


 廃仏毀釈の風潮と戦乱後の疲弊感の中で社会事業に活路を見出そうとしていた僧侶、岡崎願成寺住職与謝野礼厳、禅林寺(永観堂)前住職東山天華、慈照寺(銀閣)住職佐々間雲巌、鹿苑寺(金閣)住職伊藤貫宗らが明石らと相集った。これらの僧侶達が発起人となり、明治4年病院建設を府に出願し、府は他21名と共に療病院勧論方として任命しました(のちに67名)。彼等は府下各分野からの資金調達に奔走し、一般府民の浄済、管内医師や薬舗からの助資金、花街に課した冥加金等による資金は5万に達したといわれます。


 京都療病院はこのような気運の中から生まれた病院であり、京都における近代医療と近代医学教育の幕開けとなりました。京都療病院の名称は聖徳太子が悲田院、施薬院、療病院の三院を創設された故事にならって命名されました。

ヨーロッパ医学の導入と医学教育

 療病院設立に伴い招聘された初代外国人医師はドイツ人の名医ヨンケル(Junker von Langegg)であり、明治5年9月から木屋町の仮療病院で診療を開始し、11月12日より粟田口青蓮院内の仮療病院で解剖学の講義を開始した。2代目のオランダ人医師マンスヘルト(C.G van Mansvelt)は医学教育の系統化に努力し、又、療病院長設置の必要性を勧告した。初代病院長には半井澄が就任しました。3代目はドイツ人医師ショイベ(Heinrich Botho Scheube)で、診療研究に熱心で、脚気病、寄生虫学に大きな業績を残しました。この3人の外国人医師は、療病院に近代医学を導入し、病院の発展と医学教育に多大の貢献をしました。


 明治12年4月16日には医学校も併設され、初代校長に萩原三圭が就任し、以後半井澄、猪子止戈之助、加門桂太郎、島村俊一と続いた。明治32年京都帝国医科大学(現在の京都大学医学部)が設立されるや優秀な人材が転出し、一時存亡の危機におちいったが第5代島村俊一校長は医学校部の改築改良を竣功し、他日、京都府立医科大学に昇格する基礎を固めました。

ま と め

 明治5年の京都療病院設立は京都における本格的な近代病院の始まりでありました。そしてヨンケルにはじまる3人の外国人医師によって開始された診療と医学教育は医学校、医学専門学校となり、現在の京都府立医科大学へと発展しました。


 槇村、山本、明石らの為政者達の活躍が療病院設立の発端とはなりましたが、東山、佐々間、与謝野らの僧侶達の奔走が多くの寺院の出資と広い分野の一般府民の協力と浄済を得ることになり病院建設を可能にしました。このように仏教界を中心にして府民が作ったところにこの療病院の大きな特色があり、他の府県では見られなかったことであります。かつてのヨーロッパにおいてキリスト教会(カトリック教会)が病院設立母体であったことを考えるとこの療病院はヨーロッパ医学の正統を引き継いだともいえます。


 転換期に立つ医学と医療を考えながら、京都療病院の設立経緯をふりかえってみるとき、そこに、為政者、僧侶、医師達の創造と一般府民の信頼をみることができます。

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